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執筆者の写真手を貸す運動Ⅱ

残ったパンはどうなさった?

 皆さん、あと1ヵ月余で本会計年度も終ります。そこでこの際もう一度、なぜ私たちがこの支援をしているのかを確認しておくため、私が少しばかり話すのをお許しください。

 

 福音書はイエス様が五つのパンと二匹の魚で5千人余の群衆に満腹するまで食べさせた奇跡を伝えていますが、その後で残ったパンを「少しも無駄にならないよう」(ヨハネ6.12)弟子たちに集めさせたことも書き残しています。今回注目していただきたいのはその残ったパンの方です。

 それは12籠もあったそうですから相当な量だったはずです。でも福音書はその後のことは何も書いておいてくれなかったので、後世の私たちはそれがどうなったかは推理するしかありません。イエス様は翌朝そのいく分かを弟子たちに食べさせたかも知れません。でもまだかなり残っていたでしょう。では、いったいそれはどうなさったのでしょうか?私はこう推理します。弟子たちを手分けさせ、近隣の貧しい人々に配って歩かせたのではなかろうか、と。 

 思うに、奇跡の間中は弟子たちも群集も皆、どんどん増えるパンに興奮・驚喜、満腹・満足し、自分たちのことでいっぱいで、その場にいない人のことなど考えもしなかったことでしょう。しかし、イエス様は違いました。パンの奇跡の最中ですら、そこに来ていなかった貧しい人々のことを忘れることなく、その人々にもパンを分けてやりたいと考えておられたと思うのです。だから、「少しも無駄にならないように」、残ったパンを弟子たちに集めさせたのではないでしょうか。いや、きっとそうだった、と私は忖度するのです。  だとすると、これは私たちへの一メッセージになります。奇跡のパンを食べた群衆と同じく、私たちも日々食物に恵まれています。だから、もちろん感謝していただきます。でもひょっとして、たとえ粗末にしていないとしても、飢えている人々のことまでは思い至らず、自分のことだけで終わりがちではないでしょうか?主が残ったパンを集めさせたのは、食物を大切にすることも然ることながら、ない人たちとの分かち合いを学ばせたかったからだと思うのです。 

 しかしながら、今は昔と違い、食品衛生上の問題や受ける相手の自尊心も考えなければなりません。それに、分かち合う気持ちがあっても、遠い国にはパンやご飯の現物は届けられません。運ぶ間に腐ったりするからです。では、どうしますか?現物に代わる物があるのです。お金です。お金は腐りません。残ったパンの代わりに遠い国まで届けられ、そこで食物に変身してくれるからです。私たちがしている支援はそれに他ならないと言っていいでしょう。

 フィリピンの学校給食支援は残ったパンのお裾分けの現代版であって、ささやかながらもイエス様が「少しも無駄にならないように」と集めさせたご意図に沿った実践です。チアパスの子どもたちも私たちが送る教育支援から食事もいただいています。今はコロナ禍で中断中ですが、やがて給食が再開する時は、満を持して要望に応じたいものです。皆さん、私たちのしている支援がどれほどの価値か、それに確信を持ちましょう。私たちはイエス様のように奇跡は行えませんが、奇跡をなさったその愛は見習えます。

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